2024年に生誕180年を迎えた呉昌碩(1844~1927)。石鼓文の臨書をするならば、彼の臨書作品は決して外すことはできません。今回は一生涯かけて石鼓文の臨書をし続けて独自のスタイルを確立した呉昌碩について、紹介したいなと思います!
芸術才能に溢れていた呉昌碩 石鼓文の独自のスタイルを確立
呉昌碩(ごしょうせき)は清末民初期に活躍した中国の書家です。篆刻、詩、書、画に優れていて「清朝最後の文人」と言われました。呉昌碩はもともと篆刻をメインに創作活動をスタート。篆刻に必要な篆書を身につけるため、金石書法(古代の金属や石に記された金石文字を研究し追求する学問)で石鼓文を学んでいたら…、その魅力に取り憑かれ、生涯にわたって臨書し膨大な数の作品を残すこととなりました。
呉昌碩は石鼓文の全ての文字の形や特徴を記憶していたと言われ、それらの文字を使って詩文を作ることも。呉昌碩は水墨画も1000点以上描きましたが、そこに書かれている詩文は全てが異なる内容で、詩文の才能にも恵まれていました。
呉昌碩が生涯臨書した石鼓文ですが、手本にしていたのは現在一般的に手本にされている三井記念美術館所蔵の明の安国(あんこく)旧蔵のものではなく、阮元重撫(げんげんちょうふ)が模写した「范氏天一閣本(はんしてんいっかくじゅうこくぼん)」と呼ばれるものです。「范氏天一閣本」と比較すると、呉昌碩が書いたものは字間はあまり開けずに、偏(へん)と旁(つくり)のバランスを崩して、縦に長く、のびのびと、徐々に呉昌碩らしさが加わって独自のスタイルと変化しました。
晩年に書いたものは、より安定感と重厚感が増した印象に。彼が書く石鼓文の用筆は、篆刻など他の分野の作品にも大きく影響を及ぼしました。行書体は王鐸や米芾から学びましたが、逆筆で入筆し、字間を詰め、直筆(筆を立てて書く)を基本としながら、側筆(筆を寝かせて書く)を取り入れて太さに変化を出す書法は、石鼓文からきています。
高島屋百貨店で紹介され、日本書道史に影響を及ぼしました
呉昌碩は、上海芸術界においても無くてはならない存在になります。彼は、海を渡ってきていた日本人とも交流。大正から昭和初期にかけて、高島屋百貨店の美術部が注目し、日本において展覧会を開催し図録を紹介したことで、一大ブームとなりました。呉昌碩の作風は日本人に好まれ、日本の書道の発展に大きく影響を及ぼしたと言われています。
ただ、日本人の要求や期待に応えて作品を多作することに対して、複雑な心境であったことは否めなかったそう。また晩年は耳が聞こえづらく、長年の篆刻生活から指の爪が深く傷ついた状態でアヘンの常習者でもありましたが、最期まで情熱を失わずに亡くなる数日前まで作品を書き続けました。
ちなみに上に載せた行書体の作品(「七言対聯」)は84歳のときの作品で、この数カ月後に亡くなっています。
【参考:呉昌碩が熱中した石鼓文については、こちらの記事でまとめています】
◎↓呉昌碩をはじめ、名書家たちのストーリーがよく分かる本です(*´∀`*)。
◎↓呉昌碩の作品を臨書するなら、二玄社の法書選(お手本)と法書ガイド(解説本)があると便利かと!