紙が生まれる以前の古代中国において、人々は木や竹を短冊形に削り、そこに文字を書き記されていました。それらを「木簡(もっかん)」「竹簡(ちっかん)」といい、両者合わせて「簡牘(かんとく)」と呼びます。今回はこの「木簡」と「竹簡」について紹介したいと思います(*^^*)。

マンガ「とめはねっ!」10巻引用☆登場人物が木簡を初めて見る印象的なページ(^^)

木簡と竹簡は、春秋戦国時代(紀元前770~前221年)から晋の時代(265~420年)までものがありますが、一番多く残っているのは漢代(前漢:紀元前206年〜8年、後漢23〜220年)のものです。紙が作られるようになったのは、紀元前150年くらいと言われていますが、紙は貴重だったため、代わりに木簡と竹簡が長く使用されました。紙と異なる点としては、木簡や竹簡は字を書き間違えても削って消すことができること。当時の記録係は筆や墨とともに小刀を持ち歩いていたそうです。

■竹を裂いて墨で書き、丸めて保存していた「竹簡(ちっかん)」

竹簡は、戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)から隋(581~618年)頃まで使用、隷書体や楚文字で書かれていました。↓作り方は竹を縦半分にし、約1センチ幅でさいていきます。火で炙ることで油分と水分を除き、青みを消すことで墨が乗りやすくなります(殺青(さっせい))。文字は竹の内側に書いていました。

「マンガ書の歴史」から引用しました☆

長い文章はいくつもの竹に書き、すだれのように紐でくくって丸めて保存。ちなみに本を数えるときなどに使う”冊”は、↓この姿からきているそうです。

「書のひみつ」より引用しました☆

◎秦簡(しんかん)
秦とは、最初に中国統一を果たした王朝(紀元前905年~紀元前206年)。秦の国で使われた文字を記した竹簡を「秦簡」といいます。法律や制度、政治関連、中国統一から滅亡までの内容が多く書かれています。
◎楚簡(そかん)
楚とは、春秋戦国時代に存在した大国(紀元前11世紀 – 前223年)。楚の国で使われた文字を記した竹簡を「楚簡」といいます。政治関連や社会のあり方、国の歴史などの内容が多く書かれています。

■竹の産地ではない西域地方で生まれた「木簡(もっかん)」

戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)、秦の王朝時代(紀元前905年~ 紀元前206年)、漢の王朝時代(前漢:紀元前206年〜8年、後漢23〜220年)に使用されました。紙が誕生後の唐(618年 – 907年)以降は、国の公式文書や荷札などの限定的な用途で使われました。竹簡と比べて長さは半分以下ものが多く、竹簡同様に紐で綴じた状態での保管ができました。横幅の広い木簡のことは「木牘(もくとく)」といいます。

◎高校の教科書にも出てくる「敦煌漢簡」と「居延漢簡」

どちらも前漢時代(紀元前206年〜8年)の木簡。→漢時代の木簡・竹簡…「漢簡(かんかん)」。
敦煌漢簡(とんこうかんかん)は、イギリスの探検家のオーレル・スタインによって、敦煌の建物跡から発見。居延漢簡(きょえんかんかん)は、1930年に地理学者で探検家のスウェン・ヘディンによって、楼蘭(ろうらん)の遺跡で発見された一万片もの木簡です。これら漢簡の内容は公文書が多く、駐屯の記録や軍事制度、民衆の生活などが書かれています。隷書独特の波磔の書法が取り入れられており、「前漢隷書に波磔無し」という説が覆されました。↓どちらも高校の書道の教科書に載っています!

高校の教科書「書道Ⅰ」から引用しました☆
こちらは「書道Ⅱ」から引用しました☆

竹簡や木簡は、広い意味で隷書と言われることが多いですが、篆書隷書草書行書はもちろん、初期の楷書のような書体も含まれています。前述の「敦煌漢簡」と「居延漢簡」には、波磔がしっかりと表現されているものもあり、隷書八分の礼器碑よりも、肉筆で書かれた両者の方が生き生きと勢いを感じて魅力的だと捉える人もいます。

マンガ「とめはねっ!」11巻より引用しました☆
木簡などを臨書する理由 書を自由に捉える大切さと、奥深い美しさが学べる

私自身長く書道をしていますが、木簡は一度も書いたことがありません。臨書を学んでいて(日本習字臨書部)毎月様々な古典がお手本の冊子に載っていますが、木簡が課題になっていたことは記憶にないです…!
それはパッと見て、一般的な「美しい字」からはかけ離れた字体だからかもしれませんが、力強く味のある線はとても面白味を感じます。コツを掴んで書けたら、書の奥深い魅力を再確認できたり、堅苦しくない可能性を実感できるのかなと思います。機会があったら是非臨書してみたいなぁ。

こちらも、「とめはねっ!」11巻より引用☆(このマンガ、是非読んで欲しいっ!!)

◎竹簡の面白い商品を見つけたので載せておきます!笑